釣りの思い出と聞けば大物や爆釣の日を思い浮かべる人が多いだろう。しかし実際に長く釣りを続けていると、なぜか強く記憶に残るのは苦戦した日の方だったりする。丸一日粘って一尾だけだった日、あと一歩で本命に届かなかった日、あるいは完全なボウズの日。そうした釣行ほど何年経っても鮮明に思い出せるのはなぜなのだろうか。
(アイキャッチ画像提供:TSURINEWSライター・井上海生)
爆釣より記憶に残る苦戦
人は成功よりも失敗や悔しさを強く記憶する傾向があると言われる。釣りも例外ではない。アジやサバの回遊に当たり何10尾も釣れた日はもちろん楽しい。しかし後から振り返ると、どのタイミングで何を考えていたかは意外と曖昧である。
一方で朝から晩まで投げ続けて反応がなかった日や、期待していたポイントが空振りに終わった日は驚くほどよく覚えている。悔しさや焦り、期待と落胆が入り混じるため、感情ごと記憶に刻まれるのである。
ちなみに筆者は今年に入ってボウズをすでに5回ほどやっている。いずれもチヌとシーバス狙いだ。やはりライトゲームアングラーが簡単に手出しするものではなかったか、と考えもするが、まあ過ぎてしまったことは仕方ない。
1尾の価値が大きい日
厳しい状況で得た1尾は特別な存在になりやすい。魚の価値はサイズや数だけでは決まらない。5時間粘って最後に釣れたメバルや、何度もポイント移動を繰り返してようやく出会えたチヌには過程そのものの価値がある。
執念の釣果こそ価値あり(提供:TSURINEWSライター井上海生)爆釣の日の20尾目より、苦戦の末に手にした1尾の方が鮮明に記憶へ残ることは少なくない。釣り人同士の会話でも、入れ食いの話より最後の最後で絞り出した1尾の話の方が印象深いことが多い。
釣れなかった理由を考える
釣れなかった日は反省する時間が長い。潮が悪かったのか、風向きが合わなかったのか、レンジを外していたのか、そもそも魚が入っていなかったのか。帰宅中も考え、自宅へ帰ってからも考える。
なぜ釣れた? 釣れなかった?(提供:TSURINEWSライター井上海生)その繰り返しが記憶を強くするのである。爆釣の日は楽しい思い出として終わるが、不調の日は未解決の問題として頭に残り続ける。だから数年経っても意外なほど細部まで覚えているのだろう。
ボウズにも物語がある
完全なボウズは釣り人にとって決して嬉しいものではない。しかし後になって振り返ると、不思議と印象的な思い出になっていることが多い。強風の堤防で震えながら投げ続けた夜、期待して遠征したのに何も起こらなかった1日、雨の中で粘った末に帰路についた釣行。
釣果だけ見れば失敗だが、その日の景色や感情は強く記憶に残る。釣りは魚を釣ることだけが目的ではなく、その日海で過ごした時間そのものが体験として残る趣味なのである。
だから釣りは面白い
もし毎回同じように釣れるなら、釣りはここまで人を夢中にさせなかったはずだ。魚は自然相手であり、昨日まで釣れていた魚が突然いなくなることもあれば、何の前触れもなく回遊が始まることもある。その不確実さが釣りの魅力なのである。
悔しい思いをしたからこそ次の釣行が待ち遠しくなり、苦戦したからこそ1尾の価値が高まる。釣り人が釣れなかった日の方をよく覚えているのは、魚の数ではなく、その日に味わった感情や試行錯誤の時間を記憶しているからなのだろう。だから今日のボウズも、数年後には忘れられない思い出になっているかもしれない。
豊漁とボウズ(提供:TSURINEWSライター井上海生)とはいえもちろん――筆者個人の感覚としては、爆釣してくれるほうがうれしいに決まっている。いつでもどんなときでも釣果最優先の気持ちは変わらない。私は魚を持ち帰りこそしないが、そんなところは実益的である。
だが、釣れ渋っているときにやっと来てくれた1尾に手ごたえを感じることもまた確かだ。何せ、魚が釣れてくれて悪い気分はしない。だがボウズや貧果から学ぶことも少なくない。
<井上海生/TSURINEWSライター>


