釣りという趣味には、不思議なほど人間性を美化する言葉が付きまとう。その代表が「釣り好きに悪い人はいない」である。どこか格言めいた響きを持ち、共感もされやすい。しかし現場に立ち続けていると、この言葉に対して単純にうなずけない瞬間も増えてくる。本記事では、自分自身と周囲のアングラーたちを見つめ直しながら、この言葉の実像について考えてみたい。
(アイキャッチ画像提供:TSURINEWSライター井上海生)
「釣り好きに悪い人はいない」
「釣り好きに悪い人はいない」と、この言葉は広く知られているが、そのイメージを決定づけた一因として、もう30年ほど前、モーニング娘。の楽曲の中で歌われたことが挙げられる。釣りという自然と向き合う行為が、人を穏やかにし、善良な方向へ導くというニュアンスを含んでいるのだろう。
確かに、自然の中で過ごす時間は人を落ち着かせる。潮の満ち引きや風の変化を感じながら竿を振る行為は、日常の雑音から距離を置くきっかけにもなる。そうした経験を積み重ねれば、人間性に良い影響があるという考え方も理解できる。
だが、この言葉が真実であるかと問われれば、少し立ち止まる必要がある。
実際、いる
結論から言えば、悪い人はいる。釣り場にゴミを放置する者、マナーを守らない者、場所取りでトラブルを起こす者。こうした行為は決して珍しいものではない。
ポイ捨ての光景は日常(提供:TSURINEWSライター井上海生)むしろ釣り場という限られた空間では、人の本性が出やすいとも言える。釣果を競う意識や、良いポイントを確保したい欲求が強まることで、利己的な行動に傾くケースもある。自然を相手にしているからといって、人が自動的に善人になるわけではない。
この現実を直視すると、「釣り好きに悪い人はいない」という言葉は、理想や願望に近いものであると理解できる。
仲間同士の絆は深い
一方で、釣り人同士の結びつきが強いのもまた事実である。同じポイントに通い、情報を共有し、釣果を喜び合う関係は、他の趣味にはない独特の連帯感を生む。
顔見知り同士での助け合いや、ちょっとした会話の積み重ねが、釣り場の空気を柔らかくする。そうしたコミュニティの中では、自然とルールやマナーも共有されやすく、居心地の良い環境が形成される。
しかし、その一方で別のグループとの摩擦が生じることもある。常連と新規、ルアーとエサ、ローカルと遠征者といった立場の違いが、小さな対立を生む。決して大きな衝突ではないにせよ、どこか面倒くささを感じる場面は少なくない。
他の釣り人との距離感は大事(提供:TSURINEWSライター井上海生)つまり、釣り人は仲間内では優しくても、外部に対してはそうとは限らない。この二面性もまた、現実の一部である。
自分はどうなのか?
では、自分自身はどうなのか。善人か悪人かと問われれば、どちらにも振り切れてはいないと思う。ただ少なくとも、釣りを通して自然に対する敬意は持っているつもりである。
海や川に立つたびに、その環境に生かされている感覚がある。魚がいてこそ釣りが成立し、水がきれいであってこそその価値が保たれる。その前提を考えれば、自然を粗末に扱うことはできない。
同時に、どこか打算的な感情もある。少しでも善い行いをしていれば、釣果が巡ってくるのではないかという期待である。ゴミを拾う、場所を譲る、無理をしない。そうした小さな行動が、結果的に自分へ返ってくるのではないかと考えてしまう。
小さな善行が釣果を生む?(提供:TSURINEWSライター井上海生)それが純粋な善意かどうかは分からない。ただ、釣りという行為が、自分の振る舞いを少しだけ良い方向へ導いているのは確かである。
結局のところ、「釣り好きに悪い人はいない」という言葉は事実ではない。しかし、そうあってほしいという願いが込められているのもまた事実である。その理想に少しでも近づくために、自分がどう振る舞うか。釣り人である以上、その問いから逃れることはできないのである。
<井上海生/TSURINEWSライター>



