世界的に見て魚の生食は非常に珍しいと言う。日本では昔から根付いた食文化だが、そもそもなぜ魚の生食は始まったのだろうか?これは考えてみれば不思議なことで、現代人の我々がたとえば豚肉を生食しようかと思うと、そんなふうには思わない。どういった経緯で魚の生食が普遍化してきたのかルーツを知りたい。
(アイキャッチ画像提供:TSURINEWSライター・井上海生)
珍しい魚の生食
魚の生食は、特に日本を含む東アジア地域で広く見られる伝統的な食文化である。これが中国や韓国に行くとほとんど見られないのだから興味深い。その起源については、次のような背景があるようだ。
環境に恵まれていた
日本は島国で、かなり大雑把にいうと、大体の地域が海に面している。沿岸地域では、魚が新鮮な状態で手に入りやすかったために、調理をせずともおいしく食べられることがわかった。また保存技術も古くから確立されており、「なれずし」など発酵させて食べる方法もあり、生の魚を直接食べる文化が形成されていったようだ。ルーツの元を見るならば、これが、現代の寿司文化の始まりと考えられている。
火を通さずに調理できる簡便さも、魚の生食が広がっていった理由のようだ。今、我々の感覚ではともあれ何かを「生の状態」で食べることはおそろしいものがあるが、昔の食材開拓の時代には、もっとトンデモナイことが行われていたのかもしれない。まるで関係ない話みたいけれど、戦場で飢餓に苦しんだかつての日本兵はベルトの皮を食べたとも聞いた……。
日本独自の文化として残った理由は?
日本のほかにも東南アジアでは今でも魚の生食文化が残っている。かつては中国や韓国でも魚の生食がされていた記録があるようだ。最終的に根付かなかった理由としては、やはり中国のような巨大な大陸だと鮮度が保ちにくいという理由が大きいのだろう。
日本では江戸前寿司が現代の寿司の原型とも言われている。回る寿司なんて、どうだろうか。プライドを持った往年の板前たちが見ればそれこそ怒りに目が回りそうな話だが、今はどこで食べても日本の寿司はおいしいものだ。――ところであの回転寿司のレーン、一億円すると、ものの本で読んだことがある。そんな設備投資も回収できるのだから良い商売なのだろう。
「素材そのものの味を楽しむ」という美食文化は聞こえがいいようで、寿司はまさしくその一種なのだろうが、某クレイジージャーニーが第三諸国で食べている牛を川水で煮込んだだけのものなど、やはり見ていてウッとなるものがある。島国根性で寿司だけを何か尊く崇めている、とも言えるか。
しかし現代では、生食そのものに栄養価としての価値があるとも知られるようになった。火を通さないことで、魚のビタミンやオメガ3脂肪酸を効率的に摂取できる。保存方法を磨いてニオイを抑え、長持ちさせる技術が磨かれてきたのには、実は肉体がそのような栄養を求める生得的な欲求があった!?
外国人に聞いてみたスシの話
筆者は仕事で外国人と接する機会がしばしばある。アメリカ人、フィリピン人などなど。やはり付き合いはじめのころに聞くのは「寿司はおいしい?どんなネタが好き?」だが、私の記憶では、とにかくおいしいと誰もが口を揃えて言う。そして、「サーモンが好き」という外国人がかなり多い気がする。
一度「頭つきのお造りは見ていて辛くないか?」と聞いたことがあるのだが、相手は苦笑していた。どうも魚嫌いは魚の顔を嫌う傾向にあるが、これはお刺身を食べようとする外国人にも通じるようだ。
和食の代表、世界への進出は?
今では魚の生食は日本ばかりでなく、世界にも広がりを見せている。それが美食として受け入れられているのか、好奇心くすぐる異邦の珍食なのか、はたまたゲテモノなのかわからないが、回転寿司だってアメリカやイギリスに点々とあると言う。しかしばっちりと収益化でき、成功を収めているといえるのは、アジアの一部だけらしい。
筆者の行きつけの居酒屋の大将は、ニューヨークの大々的なイベント会場の地下で創作寿司店のマスターをしていたらしい。その人が言うには、「物珍しいかどうかなんて知らない、俺が作るから食うんだよ」ということだ。なるほど。どんな国の料理人にも誇りがあり、煩い評価など寄せ付けないのだ。
<井上海生/TSURINEWSライター>