「休みの日とか何やってるんですか?」と、人間関係の入り口みたいな部分でよく聞かれる。毛嫌いする人もいるので、「ルアー釣りやってますよ」とは滅多に言わない。
(アイキャッチ画像提供:TSURINEWSライター井上海生)
たまに素直に答えてしまうと、「食べたりするんですか?食べないならなんでやるの?」と目を丸くされることもしばしば。適当にあしらっているが、答えは「趣味です」としか言えない。
「食べないのになぜ釣るの?」
「釣りですか?何を釣るんですか?」
「アジとかメバルとか」
「それはエサで?」
「いやルアーで」
と、こっちの気分ではなんだか追い込まれていくような問答が続く。そのへんで放っておいてほしいのだが、もう一歩踏み込んで、当然、みたいな顔で「食べるんですよね?」と言う人もいる。いや、まあ、そういうこともあるけれど、別に毎回食うのではないのだ。
「え?食べないんですか?じゃあなんで釣るんですか?」
「まあ趣味ですし」
このへんから善人ヅラを取り繕っているのがいい加減怠くなってくる。食べないのになぜ釣るの?と言う人は、スーパーマーケットのザルにモリモリにされた鮮魚を見て、「どうせ捨てられるんでしょう、可哀そうだな」とまで思うのだろうか。いやそんな繊細な人ではないはずだ(妙に攻撃的になってくる)。そういうことを思うのは、むしろ生命を大事にしているつもりである、リリースメインの私のようなルアーアングラーではないだろうか。
答えは「趣味」としか言いようがない
この答えは「趣味です」という一言が究極のポイントである。何か自分らしい信条を語ってもいいが、私は趣味というのは、聞かれたことに最低限の言葉でぼそぼそと語るのがまともな大人の品性だと思うので、ここで魚に対する偏愛を語ることなんてない。そんなことをされたら相手もただ聞いたことの軽さに対して、重い答えがきてちょっと引くはずだ。
それにしても「食べないのになんで釣るんですか?」という質問は、ちょーっとすまないがアレなんじゃないのと思う。牛肉だって豚だったしセーターだって羊だった。人はそういうことの多くは他人任せにして、自分の現実に響いてこないように無意識で「目の前にある命」以外を無視している。そんな人たちに「食べないのに――」と言われても困る。
事実生命を相手にするという点でゲームフィッシングは確かに一面残酷かもしれない。だが、釣りによって生命の尊さを学ぶこともある。魚自身が教えてくれるだけではない。釣り中に思わぬアクシデントで竿を折ったり、自分が怪我をしたり、そのような「思い通りにいかなさ」を学ぶことで、人は自然こそ偉大なものと知る。人間なんて卑小なものだ。
偏見ばかりつらつら。敵を増やしていくようだが、私はゴルフというものをしないし、ゴルフのことを嬉々と語る人たちに一種の敵意を覚える。何かしら図々しさがある。まあ釣り好きの話も長いし独りよがりだが、やらない人にとってのゴルフの話だって謎だ。食べる釣りをしていようが、食べない釣りをしていようが、もう我々の好きにさせてほしい。
「食べることもありますよ」も好回答か
――実生活で「なんで食べないのに釣りをするんですか?」とものすごく素朴そうな顔で聞かれて、私の中の胸中にわくのは以上のようなクサクサとした反社会的な気分だが、当然大人なので実際口に出してそんなことを語ることはない。うまいこと雰囲気を中和するために、「食べることもありますよ」とか、「食べられないほど釣れたときはなじみの居酒屋に持っていったり」という、なんというか、衝突を避けることを目的とした返事をする。
これは自分ながら好回答といえよう。そうすると「ああ、自分で釣った魚っておいしそうですもんね」と、相手が「ルアーフィッシングは下品」と思う最右翼でない限り、このへんで終わる。こないだ、えらい低活性の日に、とある港で話した年配の釣り人は、「今日はあかんけど、たまに竿が曲がるだけで面白いね」との、なんとも美しい一言を聞いた。釣りの腕が上がっても、こういう「心の鷹揚さ」という部分で私はまだまだ未熟者である。
「釣り」を毛嫌いする人もいる
しかし中には釣りを毛嫌いする人がいるのも事実だ。魚そのものにトラウマがあるか、生きている魚が怖いか(私の知人にはこれが多い)、頭つきの刺身がどうしてもダメとか、そういう理由だ。また個人的な性格の根本からしてまさしく毛嫌いする人もいる。
それでなくても釣り人は「マナーを守らない」と海辺のご近所さんでは迷惑者扱いされてしまったりする。場を汚さず礼儀正しい釣りをすることで、釣り人は一丁前の意見を言えるのだ。
<井上海生/TSURINEWSライター>